あの日から5年
2011年3月11日。
5年前のあの日、私は小学6年生でした。
卒業制作のオルゴールを作っている途中、変な感覚に襲われました。
ふわふわと体が浮いているような…。はじめは目眩かと思いました。
そして、先生からの指示がでて、訓練以外で初めて机の下に潜りました。
テレビをつけたら東北が震源地だとわかりました。
私が住んでいる地域では全く被害がなかったので気にも留めないで授業が再開されました。
塾から帰ると、母は残業でいませんでした。
留守番中、音がないと寂しい私はいつもテレビをつけて母の帰りを待っていました。
その日も当然、いつもと同じ様にテレビをつけました。
画面一杯に広がる土色に何が映し出されているのかわかりませんでした。
チャンネルを何度も変えました。
何回変えても画面は土色でした。
叫び声が聞こえました。
家が流されていました。
誰かが泣く声が聞こえました。
車がひっくり返って何台も流されていました。
衝撃的でした。
あまりにも怖くて、信じられなくて、信じたくなくて、私は現実逃避としてずっとパソコンに張り付いて気を紛らわそうとしていました。
母の帰宅。
「大変だよ………!!!!」
と涙を流しながら母に抱きついたことは今でもよく覚えています。
その日、大阪に出張に行っていた父は日付が変わる直前に自宅に帰ってきました。
高層ビルの最上階に居た父。
当然エレベーターは止まり、階段を駆け下りて避難したそうです。
夕方に駅に着くと、新幹線は運転見合わせ、在来線も殆ど走っていない様な状態でした。
乗り継ぎ、乗り継ぎ、なんとか父は帰ってきてくれました。
震災以前から、東北には地元で応援している医師の方がいらっしゃいました。
桑山紀彦先生です。
先生は、海外の様子を歌と写真で伝える講演会「地球のステージ」を全国で行っていらっしゃいます。
ご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。
その桑山さんを私の地元では応援していたのです。
真っ先に安否が気になりました。
震災から暫くして、被災地の深刻な状況が見えてきました。
桑山さんは24時間体制で診療を行いました。
震災から一ヶ月。
桑山さんは被災者の方の心のケアを行っていらっしゃいました。
その中で、桑山さんは1人の女の子と出会いました。
お父さんを失った女の子です。
水が怖くてお風呂に入れなかった彼女。
桑山さんのおかげで徐々に心を開いていきます。
桑山さんのブログ、そして地球のステージを通して、私は彼女と知り合いました。
初めて会ったのは震災から2年目の冬。
彼女は触ったら折れてしまうんじゃないかというほど、心も体も、細く、脆かったです。
でも、彼女は強かった。
得意の手芸を、武器に彼女は一歩一歩歩き始めたのです。
「震災で失ったものはたくさんあります。
そして、もう戻ってきません。
でも、私はこんなに支えてくださる皆さんと震災を通して出会えました。
震災のおかげで出会えたのです」
この言葉は、彼女が3年ぶりに私の地元に来て語り部をしてくれた時の最後に語ってくれた言葉です。
「震災のおかげ」
この言葉が出てくるまで5年がかかりました。
とても重い言葉でした。
もう5年じゃない。
まだ5年なんです。
まだまだ更地です。
復旧はしました。
復興はできてません。
桑山さんや彼女をはじめとする被災者の方に出会って、ボランティアに触れて、自分は大きく成長することができました。
友達に話すと、「なんか、すごいことやってるんだね。」
「へぇー」
「それ、楽しい?」
など、反応は様々です。
人が「やれ!」と言ったものに興味を持つのは中々難しいです。
ボランティアが素晴らしいとか、そんな話をしているわけではないのです。
ただ、忘れないでほしいのです。
検索サイトや、ツイッターなど、今日は3.11というワードで様々なイベントが行われています。
「そっか、3.11か。5年目なんだー」
それだけでいいのです。
彼女は
「忘れられて行くのが一番怖い。こっちは、何も変わってない。」
と言っていました。
どうか忘れないで
そして、あの日、間違えてしまったこと。
災害を見縊らない。
この機会に、もう一度自宅を、避難場所を、避難経路を、見直したりできるといいんじゃないかと思います。
行方不明者の方が一刻も早く見つかりますよう、心からお祈りいたしております。